本記事は、2009年9月14日に掲載された、G-Search sideB記事を再掲載しています。

司馬遼太郎の代表作「坂の上の雲」のドラマが、今秋放映される。

NHKによる映像化が発表されたのが2003年1月。その後紆余曲折を経ながらも、待ちに待ったこの日が遂にやってきた。3年間にわたって全13回放映(90分/1話)というボリューム満点の内容に、自然と期待は高まる。

今回はそんな「坂の上の雲」の魅力を、G-Searchの『新聞・雑誌記事横断検索』で調べてみた。

どんな作品

「坂の上の雲」は、1968年から4年半の間、産経新聞に連載された小説である。単行本の初版が1969年(全6巻)、文庫の初版は1978年(全8巻)。実に40年以上も前の作品であるが、今なお多くの読者に愛されていて、数ある司馬遼太郎作品の中でもダントツの人気を誇っている。

物語の舞台は、明治時代の日本である。幕末の動乱を経て、明治維新という奇跡的な政権移譲に成功し、ようやく近代国家の息吹が芽生え始めたわが日本。国外に目を向ければ、虎視眈々と領土拡張を企図する欧米列強がひしめき、常に外圧にさらされている状態であった。

一方国内の情勢はというと、依然として経済は困窮し、社会インフラもぜい弱だった。人材の育成や産業の発展、法律や軍隊の整備、憲法の制定、そして統治機構の整備が急務とされた。

欧米列強がせめぎ合う国際政治の舞台で、資源が乏しく、狭い領土の日本をどのように発展させていけばいいのか。作者は、命がけで国の舵取りをする明治時代の指導者の姿を克明に描いている。

タイトルの「坂の上の雲」とは、空に浮かぶ雲を目指して坂をかけのぼっていく若者の姿を彷彿とさせる。まさに青年国家日本の成長を描いた、青春物語といってもいいだろう。

メインは日露戦争

物語の大半を占めるのは、日露戦争である。日露戦争とは、明治37年(1904)からおよそ2年間にわたって、当時強大な軍事大国であった帝政ロシアを相手に行われた戦争である。

「坂の上の雲」はこの日露戦争をメインテーマにしており、主人公である秋山好古・真之兄弟を軸に、物語は展開していく。

日露戦争には数多くのエピソードが残されている。広瀬武夫中佐の悲恋/二百三高地を巡る激戦/乃木希典大将とステッセル将軍の水師営の会見/金子堅太郎の渡米外交工作と新渡戸稲造の『武士道』/日本海海戦の東郷ターン、などあげればきりがない。詳細は原作や歴史の教科書に譲るとして、ここでは主人公の秋山兄弟についてみてみよう。

■秋山好古(あきやま よしふる)/阿部寛
生没:1859-1930(安政6-昭和5)愛媛県出身。
日露戦争開戦時の階級:少将。最終階級:大将

物語の主人公。松山の貧しい藩士の家に生まれる。師範学校を出て教師になった後、陸軍士官学校に入学。優秀な成績を修め、開校間もない陸軍大学へと進学する。明治20年、フランスに留学して欧州の騎兵戦術を学ぶ。以後日本陸軍の騎兵隊育成に尽力していく。

日露戦争においては、(第二軍)騎兵第一旅団長として出征する。粘り強い性格の持ち主で、酷寒の黒溝台会戦にて、ロシア陸軍10万の猛攻を8000の兵で陣地を死守し、日本の勝利を導いた。その後の奉天会戦においても活躍し、日本の勝利に大きく貢献した。

退役後は郷里松山の中学校の校長になり、自ら教鞭を執った。騎兵隊を育成した功績から、”日本陸軍騎兵の父”と言われた。

■秋山真之(あきやま さねゆき)/本木雅弘
生没:1868-1918(慶応4-大正7)愛媛県出身。
日露戦争開戦時の階級:少佐。最終階級:中将

好古の9つ違いの弟。15歳で上京、海軍兵学校に入学し、首席で卒業する。日清戦争に従軍後、米英に留学。戦略家マハンの元で戦略戦術を学ぶ。頭脳明晰で合理的思考の持ち主だった真之は、帰国後に海軍大学の教官となり、シミュレーションを用いた斬新な教育を行った。これが日本海軍の海軍戦略/作戦立案の基礎となる。

日露戦争には連合艦隊参謀として参加。司令長官である東郷平八郎の幕僚として活躍。T字戦法などを考案し、日本海海戦における日本の圧勝を導いた。また「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」の名電文を残している。

戦争の勝利とその後

日本海海戦における日本の勝利が決定打となって、日露戦争は幕を閉じる。発展途上の小国だった日本が大国ロシアに勝利したことは、世界で驚きを以て迎えられた。

しかし大勝利と宣伝されていたにもかかわらず、すでに日本の財政は破綻寸前の状態になっていた。前線では物資が窮乏し、戦死傷者も続出した。これ以上の戦争継続は困難であり、薄氷を踏む勝利というのが実情だった。

和平会談において、ロシア側は日本の窮状を見抜いており、結局、ポーツマス条約で日本が獲得したものは、満州の荒野とそれを貫く鉄道の権益などであり、戦争での多大な犠牲に比べてわずかなものだった(その民衆の激高が、日比谷焼き討ち事件となって爆発する)。

日本は手に入れた満州に対して心血を注いで産業を育成し、発展させた。しかし昭和に入ると、対外的に強硬策をとり続けた日本は、次第に国際社会からの孤立を深めていく。

そして昭和16年、日本の止まることのない膨張政策が原因となってアメリカとの軍事衝突が必至の情勢となった。日米間で衝突回避のための外交交渉が行われ、ここでアメリカが日本に提示した関係修復のための条件は、満州を含む中国からの撤兵だった。「聖地」満州の放棄は日露戦争以前の状態に戻ることを意味しており、当時の日本人にとって、受容できるものではなかった。結果、勝算無き開戦へと舵を切ってしまう。

日本の近代化のエポックが日露戦争の勝利だとすると、大日本帝国を破滅に導いた太平洋戦争突入の過程において、開戦やむなしの決定打となったのも、日露戦争で手に入れた満州だった。歴史とはいかに皮肉で、複雑なものだろうか。

教訓として

日露戦争の勝利は、明治維新に始まる日本の近代化が成功物語だったことを裏付けた出来事だった。だがこの勝利がもたらした栄光も、40年後の太平洋戦争の敗戦によって、もろくも崩れさってしまう。日露戦争の勝利に陶酔した人々が、わずか40年後に自分たちの国が崩壊することを誰が想像できただろうか。

「坂の上の雲」を読み進めていくと、

  • 政軍の首脳は日本の実力を正確に把握し、いかに戦争を終結させるかについて腐心した
  • 軍首脳は規律と国際法を遵守し、それを兵士達に徹底させた
  • 敵国であるロシアを孤立させ、ロシア以外の国々との関係を強化して、対複数国戦にならないよう外交・宣伝工作に努めたことを窺い知ることが出来る。

しかしそれからわずか40年後に行われた太平洋戦争と無残な敗戦を眺めると、これが同じ国の出来事なのだろうかと驚いてしまう。

組織や制度そのものに欠陥が存在していたのか、運用が適切に行われなかったのか、環境の変化に適応できなかったのか、両時代のギャップについて、さまざまな角度から分析した著作や研究が数多く残されている。また作者の司馬自身も著作の中で、明治・昭和両時代の変質について度々触れている。今回のドラマ放映を機に、日本の近代化の軌跡について、振り返ってみるのもいいかもしれない。

「坂の上の雲」は、単に日本の成功物語を描いた作品ではなく、その後の転落の歴史に対する教訓と反省を読者に突きつけている。連載から40年が経過した今でも、同作品が多くの読者から支持されているのは、そうした理由からであろう。

逆に、転落の苦味を知っているからこそ、かつて輝いていた時代への郷愁として、「坂の上の雲」が多くの読者を惹きつけるのだろうか。奥深い作品である。

待望の第一回の放映は11月29日である。

参考